コンスタンティヌス大帝

2016/03/20

 

 コンスタンティヌス大帝とはどういう人か。まず会っていただく必要があるだろう。

 ローマのカピトリーノ美術館に行くと、中庭にコンスタンティヌス1世の大理石像(コロッサス)の破片が展示されている。頭部だけでも高さは2.5mあるそうで、石像がマクセンティウスのバシリカに建てられた時には、高さは12mほどあったそうである。(引用

              

      画像:マクセンティウスのバシリカに建てられていたとされる

         コンスタンティヌス1世の巨像の断片。『ローマ帝国衰

                          亡史Ⅲ』P169によれば、作られたのは西暦324年以

                          降で、「右手に十字架を捧げもっ」ていたそうである。

 

 マクセンティウスのバシリカというのは、フォロ・ロマーノのなかの建物である(写真)。テトラルキア時代のローマ帝国皇帝マクセンティウスが308年に北側部分より建設を始め、ミルウィウス橋の戦いでマクセンティウスを破って帝国を再統一した皇帝コンスタンティヌス1世が、312年に完成させた。現在は北側の側廊のみが残っている。キリスト教寺院ではなくて一種の集会所であったようだが、コンスタンティヌス1世の巨像を置くに充分な場所だったようだ。今現在コンスタンティヌス大帝の似姿を残すのはこのカピトリーノ像だけだ。

 

画像:マクセンティウスのバシリカ

 

           

              画像:在りし日のマクセンティウスのバシリカ。中央がコンスタンティヌス大帝像。

 

 ギボンによれば、大層立派な人だったらしい。共治帝二人、副帝二人、つまり4帝制度のなかの支配権争いによる陰謀、暗殺、毒殺が横行する時代に、彼ひとりこれらの陰謀に加担することはまったくなかった。ギボンの言葉を借りて表現してみよう。

 

 ディオクレティアヌス帝麾下では(20歳の頃)、

 

      エジプト戦やペルシア戦で勇名をはせ、漸次一流の指揮官(トリプヌス)へと昇進をとげてい

               た。背丈高く、威風実に堂々としていたという。何をやらせても練達であり、戦闘には大胆不

               敵、平時は実に温厚だった。なすことすべてに積極的気魄がみなぎり、加えて習性ともいうべ

               き思慮分別があった。胸は野心に溢れながら、快楽の誘惑などにはまったくの無関心、冷灰か

               のようにさえ見えた。それだけに、副帝(カエサル)にかのう候補者として彼を指名した国民

               や軍の支持は(大きく)・・・・(『ローマ帝国衰亡史』ⅡP136)

 

 ブリタニアで死んだ父親コンスタンティウス一世の死後、副帝の地位を与えられたが(34歳の頃)、

 

      ブリタニア遠征軍の行った選立を、否定もしなければ正当化もせぬという形で、とりあえずは

              この故共治帝の遺児をアルプス以西の新君主として承認した。したがって、許したのは副帝(カ

              エサル)の称号と、いうなれば第四位というローマ皇帝席次だけで、正帝(アウグストウス)の

              空位には寵臣セウェルス副帝をあてた。そんなわけで、表向き帝国体制の調和はそのまま維持さ

              れたが、すでにその実を手にしたコンスタンティヌス副帝としては、一向に功など焦る気色はな

              く、やがて最高主権という熟柿の落ちる日を悠然と待っていた。

                                                          (『ローマ帝国衰亡史』ⅡP139)

 

 腹違いの兄弟たちにも愛情をかかすことがなかった。

 

      ところで、亡コンスタンティウス帝は、その再婚によって男女それぞれ三人、合計六人の子を

               儲けていた。そしてこれら皇子皇女たちは、先后ヘレナの出自の賤しさということもあり、帝

               位の継承資格という点になると、コンスタンティヌスよりもむしろ優先権を主張しえたかもし

               れぬ。だが、このときすでにコンスタンティヌスは齡三十二歳、身心ともに働き盛りだったの

               に対し、弟たちの方は、最年長のそれでやっとまだ十三歳前後を出ていなかった。そんなわけ

               で、結局はコンスタンティヌスのすぐれた実績が認められ、死に臨んだ父帝からも正式の承認

               があたえられていた。すなわち、死を前にしてコンスタンティウス帝は、一家の隆昌と安全と

               をこの長男に託し、後配テオドラの子供たちについては、特に父としての権威と愛情とを、く

               れぐれも彼等のために遺言したのだった。事実彼等はその後豊かな教育を受け、有利な結婚も

               し立派に皇族らしい生活を保障されたばかりか、それぞれ最高の顕職をあたえられた。すべて

               これ兄としてのコンスタンティヌス帝の愛情を立証する措置であり、またこれら皇弟たちもす

               べて性情温厚、感恩の念も篤かったので、長兄の才幹、幸運には心からの推服を示していた。

                                                          (『ローマ帝国衰亡史』ⅡP139)

 

 まことに完璧を絵に描いたような人柄だったらしい。

 

画像:ミルウィウス橋の戦い(ジュリオ・ロマーノ)School of ラファエロ・サンティ

         

        画像:Google Map, 2016.  Ponte Milvio(赤矢印)。マクセンティウスは

           撤退の際、ミルウィウス橋を渡りきれず、テベレ川で溺れ死んだ。

 

 簡単な経歴をお見せしましょう。(引用:Constantine the Great

 

272        (0)   生誕、このとき母親ヘレナは16歳。

292        (20)  ヘレナが離縁される。

293        (21)  四分割統治(テトラルキア)が始まり、2人いる副帝の片方に父が任命された。

306        (34)  西方正帝クロルスの死により、西方副帝となる。

307        (35)  マクシミアヌスの娘ファウスタと結婚

312        (40)  ミルウィウス橋の戦いでマクセンティウスを破って西の正帝となり、西ローマ帝国全体

                          の支配者となった。

313        (41)  ミラノでリキニウス帝と会談し、2人の皇帝は連名でいわゆるミラノ勅令を発し、帝国

                          内で全ての宗教(特にキリスト教)を寛容すると公認した。

320        (48)  リキニウス帝は全宗教を公認した313年のミラノ勅令を破り、キリスト教徒に迫害を加

                          えた。異教崇拝(ペイガニズム)の勢力を代表するゴート族の傭兵がリキニウス帝を支え

                          た。コンスタンティヌス帝と配下のフランク人はキリスト教を象徴するラバルムの旗印の

                          下に行軍した。かくして戦いは宗教戦争の様相を呈し、

324        (52)  敗れたリキニウスは翌年に処刑され、コンスタンティヌスは全ローマ帝国で唯一の皇帝

                          となった。コンスタンティヌスはビュザンティオンに遷都してこれを「ノウァ・ローマ

                         (新ローマ)」と名づけ、ローマに倣って元老院や役所を設置した。この都市は聖十字架

                          やモーゼの鞭をはじめとするキリスト教の聖遺物に守護されていたと言われる。

325        (53)  第1ニカイア公会議が小アジアのニカイアで行われた。

337        (65)  洗礼を受けたのち、死亡。

 

 アウグスティヌスの回心(386年)に先立つこと半世紀であったが、コンスタンティヌス大帝自身がキリスト教教義上の問題で自発的積極的に働いたことはなかった。ニカイア公会議での決定には出席したが、会議の議決に従っただけだ。ただ、キリスト教公認の問題については、母親のために有利になるように積極的に動いたと考えてよいだろう。結果的にキリスト教布教のための大筋の道をつけたことは上表でご了解いただけることだろう。信教の自由とキリスト教の公認、さらにニカイア信条の追認によるアタナシオス派の認証と三位一体説の確立を決定付けた結果となった。歴史的な決定であったことは間違いない。

 

画像:第1ニカイア公会議を画いたイコンアリウスが下方の闇に画かれ断罪されている。

   (メテオラ・大メテオロン修道院所蔵)

 

 ところで、それまで寛慈一筋であったコンスタンティヌス大帝の挙動がニカイア会議ののち豹変する。ブルクハルトの言葉を借りよう。

 

   キリスト教徒と見なされたいということは、彼の側からも強く要求されていたのであろう。ニカイア公会議があってからさほどたたないとき、コンスタンティヌス帝は突然(326年)最初の結婚で生れた卓越した息子クリスプス、ラクタンティウスの教え子を、イストリアのポーラで処刑せしめ、そのあとすぐにマクシミアヌスの娘で自分の妻であるファウスタを浴室において窒息死せしめる。十一歳にもなっていなかったリキニアヌス(リキニウスの子)も、おそらくクリスプスと同時に殺害されたらしい。ファウスタが義理の息子クリスプスに対してパイドラ(テセウスの妻で、義理の息子ヒッポリュトスに恋したが拒絶され、彼が自分に言いよったとテセウスに讒した)のような感情を抱いていたのかどうか、あるいはその愛が拒まれたことで彼をコンスタンティヌス帝に中傷したのかどうか、彼女にとって自分の息子たちの帝位昇格だけが問題であったのかどうか、孫のクリスプスの死を悲しんだ老母ヘレナの抗議が果たしてファウスタも殺すよう皇帝を動かしたのかどうか、――こうした問題はすべて詮索しないことにする。だがこの冷酷無残な行為はたんなる家族の問題ではなく、政治的性質のものでもあったということは、リキニアヌスもいっしょに殺されたことからも推論できよう。

(『コンスタンティヌス大帝の時代』ヤーコブ・ブルクハルト著、新井靖一訳 筑摩書房 2003 P387)

 

                       

                        画像:コンスタンティヌス1世と司教 ニカイア信条

                                 キリスト教の歴史で最初の全教会規模の会議
                                 A.C.325年5月20日 – A.C.325年6月19日
                                招集者: ローマ帝国コンスタンティヌス1世
                                場所: 現トルコ共和国ニカイア
                                主な内容: 三位一体説のアタナシオス派を正統、アリウス派を異端とする。

                                               ニカイア信条作成。

 

 ブルクハルトは、この箇所で、コンスタンティヌス大帝の性格を「政治において道徳的ためらいなどというものはまったく関知せず、また宗教的有用性の面からしか見ていなかった人間・・・」(P387)と評している。「政治的目的のための合目的的有用性」という(ブルクハルトの)カテゴライゼーションは後世、ドイツのヒトラーが多用した理由付けであり、ドイツ人の学者がいまだにかような行動様式を「ありうべき是」としているのはいただけない。

 私なら簡単に、コンスタンティヌスは「武闘」の技術を完成したが、「和合」の技術の作成には失敗した、とするだろう。事実、

 

 コンスタンティヌス帝自身は、ペルシアのシャプールニ世(在位309-379)に対する防御戦の準備中に致命的病に襲われた。今ようやく帝は上述のヘレノポリスの殉教者教会の中で求道者たちのあいだに自分を加えさせ、そのあとで二コメディア近傍にある離宮アキュロナに運ばせ、ここで洗礼をも受け、337年の迎霊降臨祭の最後の日に息を引きとつた。

(『コンスタンティヌス大帝の時代』ヤーコブ・ブルクハルト著、新井靖一訳 筑摩書房 2003 P391)

 

彼の死後、せっかく統一した帝国はたちまちのうちに瓦解した。