聖ヘレナの意義
2016/04/01
画像:キリスト降誕教会。2007/03/26撮影
こうやって調べ上げてみると、コンスタンティヌス大帝とその母親ヘレナは、東西を含めたキリスト教徒のために、その当時では誰も考えつきもしなかったファクト・ファインディングに乗り出し、成功し、現在のエルサレムとベツレヘム巡礼地を作り上げた偉人だと思われます。
その当時、この地域はたしかにローマ帝国の領地にはなっていたが、エルサレムは西暦66年からのユダヤ戦争で荒れ果てたままになっており、ユダヤ神殿は嘆きの壁をのぞき、完全に破壊されたあとで、ハドリアヌス帝が磔の地の近くに建てたユピテルの神殿はキリスト教とは縁もゆかりもない代物だった。
この土地でキリストの磔の場所を同定し、聖墳墓教会を建てるなどというプロジェクトは、今なら「浦安にディズニーランド」を建てることをはるかに越える強烈なインパクトを西欧社会全体に与えたことでしょう。
現在考えられる彼女の活動の影響は
1. もっとも重要であったのが、エルサレムでの磔刑場所、墓の場所の確定であり、この結果エルサレムが中世クリスチャンの巡礼地として確定された。
2. エルサレムに埋もれていてだれも注目しなかった聖遺物の内、もっとも重要であった聖十字架と聖釘を発見したこと。これにより、欧州中世で聖遺物蒐集ブームに火がつけられたこと。
3. 「女でも聖跡を訪ねることができる」という概念を樹立して、のちの十字軍運動の道筋をつけたこと。
つまり、聖ヘレナが中世カトリック世界でFirst Runnerとなったことの影響はきわめて大きい。また、彼女の名前を引合いに出しさえすれば、伝説が事実に変質するほどの精神的な説得力をもつにいたったようだ。あとで付け加えるシナイ山の聖カタリナ修道院も、建設がはじまった西暦330年に当の聖ヘレナはローマで死去したはずなのに、設立者に名指しされることは、彼女の知名度の強さに周囲が引きずり込まれた印象が強い。
画像24:Ancient Rome。3-4世紀頃のローマと思われる。
聖ヘレナがエルサレムにやって来る前、西暦319年にローマのサン・ピエトロ大聖堂(旧)がコンスタンティヌス帝の命令で建設開始されたのですが、その当時は6年まえにキリスト教を容認するミラノ勅令が出されたばかりで、建設現場にはネロ帝の円形競技場と真ん中に立っていたオベリスクがあったばかりであり、ほかにはなにもなかったのです。ペテロの墓は2世紀の中頃に発見されていて、小さな礼拝堂がたてられていて、巡礼地となっていましたが、いわゆる教会はそこにはなかったのです。
ペトロはキリストの死後、ほぼ西暦60年ローマに入り、4年後の64年秋、ネロ帝の就任記念祝賀行事で十字架に逆さ磔にされて殺された。殺されて死骸は円形競技場外にあったネクロポリスに埋葬されたのだが、後にその墓が発掘されて、コンスタンティヌス・バジリカの主祭壇がその真上に置かれた。
画像:ネロの円形競技場(緑)と旧サン・ピエトロ大寺院(褐色)。ネロの円形競技場の真ん中に立っていたオベリスクは、現在はサン・ピエトロ大聖堂前庭中央に移設されている。
この聖ペトロが第一代教皇になり、現在の教皇は彼の後継者になるらしいのですが、教団によって様々な説があるから、部外者による論説は控えておきましょう。
いずれにしても、キリスト教の基礎が出来上りつつあった時代の話で、まだ東西分裂が生じる前のことでもあり、コンスタンティヌス大帝の母親もこれらすべてにつき深く関わっていたことは間違いありません。ヘレナは初期キリスト教のなかで、現代風にいえば「女傑」として活躍していたのにちがいありません。
彼女は彼女のひとり息子の活動が「武闘」の世界であり、「武闘」には生命という物理的限定条件があることを見抜き、息子に足りない「和合」の精神を「永遠の生命」にもとめたのでしょう。そしてサン・ピエトロ大寺院の建設を息子に命令したのに違いありません。この彼女の意図は立派に実現し、すくなくともルターの出現した16世紀までは絶対的な「和合」の場を全世界に提供したのです。
画像:4世紀当時のコンスタンティヌスのサン・ペトロ大聖堂の断面図を示すフレスコ画。
画像:サン・ペドロ大聖堂旧館(14世紀)
コンスタンティヌス大帝の命令によって西暦318年と322年の間に建設が開始され、完成に30年を要した。それからの12世紀の間、この教会は次第に重要性を増していき、結局ローマの一つの重要な巡礼地となった。歴代の教皇の戴冠式がこの大聖堂で執り行われ、西暦800年にはシャルマーニュ大帝(カール一世)がここで神聖ローマ帝国の戴冠式を行った。
付け足しになりますが、聖カタリナ修道院。
画像:聖カタリナ修道院とシナイ山。モーゼの「燃える茨」出エジプト記。
聖ヘレナを開祖とする説もある。
画像:シナイ山の位置
画像:聖ペトロのイコン。聖カタリナ修道院は現存する初期のイコン
を収蔵しており、このような6世紀の蝋画法によるイコンも所有している。