聖ヘレナ
2016/03/31
イエス・キリストがお生まれになった年が紀元0年で、その翌年が西暦1年ですから、私たちはイエス・キリストがお生まれになった年から数えて2016年目を現在過ごして居るわけです。
この内西暦100年までは、イエス・キリストの弟子達がキリスト教の伝搬につとめ、また近親の人達は、ユダヤ人による迫害を逃れるため西欧へ旅立ったのでしたね。それからほぼ60年後、暴君ネロによるキリスト教徒への迫害がはじまり、キリスト教徒は困難な時代を迎えたのです。
画像:
Nero's Torches(Christian Candlesticks)/蝋燭にされるキリスト教徒
Henryk Siemiradzki 1876
National Museum,Kraków, Poland
前項コンスタンティヌス大帝の項でみたように、西暦313年のミラノ勅令までは、キリスト教徒は為政者による虐待を受けてもじっと堪える以外方法がなかった。事実、コンスタンティヌス大帝の母親でさえ、西暦313年までの少なくとも20年間は、キリスト教徒であることを隠して暮らしていたはずだ。
今回はコンスタンティヌス大帝の母親であるヘレナにつき調べましょう。
コンスタンティヌス帝の名声は後代の人々の関心をあつめ、その生涯、業績の実に詳細にいたるまで明らかにされている。彼の生地、およびその母ヘレナの身分関係までが、後世長く文学的論議の対象はおろか、国民的論争の種にまでなってきた。彼女の父はブリタニア王だったなどとの説まで近年になって現われたが(・・・・・・)、やはりわれらとしては、ある旅亭主人の娘だったということの方を認めざるをえぬ。また他方、彼女がコンスタンティウスの愛妾だったとする主張もあるが、これもまた誤りで、やはりその点は歴とした正妻だったことを認めるべきであろう。コンスタンティウス大帝がダキア属州ナイススの生れであること、これはまず疑いない。そして武名だけで有名だった一家、同じくまた属州に生れ育ったこの若者にとって、学問知識の習得などにはほとんど無関心だったのもむしろ当然といえようか。父が副帝(カエサル)に挙げられたとき、やっと彼は十八歳そこそこだった。が、折角のこの幸運も、たちまち母ヘレナの離婚、次いでは父コンスタンティウスとガレリウスとの華やかな帝権連合という事態が起り、ヘレナの子であるコンスタンティヌスは、たちまち悲運のどん底へと突き落された。(『ローマ帝国衰亡史ⅡP135)
画像:Prototype: gold solidus of Emperor Constantine I (307-37),
Nicomedia, 335 A.D. CM.EM.61-R, Emmanuel College Collection.
ところで、ヘレナの前身は、家畜係の下女であったが、コンスタンティヌス(父帝コンスタンティウス一世)は、たぐいまれな美貌を見そめて妻としたのである。これにかんして、アンブロシウスは、つぎのように述べている。「ヘレナは、前身は宿屋の女中であったと言われるが、のちに皇帝となった先代のコンスタンティヌスは、彼女を妻にめとった。まことに、ヘレナは、主のかいば桶をもとめてやまないよきはしためであった。盗賊の手にかかって半殺しになった旅人の傷を治してやったあの宿屋の主人(注:『ルカ』10-30、<よきサマリア人>)のこころをよく知ったすぐれたはしためであった。ただキリストのみこころにかなうことのみを念じて、それ以外のことはすべて塵芥(ちりあくた)にすぎぬと考えた。そうだからこそ、キリストも、ヘレナを塵芥のなかから召しだして、御国(みくに)にあげられたのである」 (『黄金伝説』2 ヤコブス・デ・ウォラギネ 前田敬作・山口裕訳 平凡社 2006、64 聖十字架の発見、P202)
画像:コンスタンティヌス大帝の勢力図(AD306-24)。転換点は306年父クロルスの死、312年ミルウィウス橋の戦い、316年チバラエの戦い、324年アドリアノープルの戦い。
前述のコンスタンティヌス年代記をも併せて聖ヘレナに関する客観的な実像を作り上げてみると、
1. ヘレナはたぐいまれな美貌をもっていた。
2. それがゆえに現在のセルビアのナイッススで、西暦273年、当時23歳であった一士官クロルスは、当時23-27歳であった宿屋の娘ヘレナと運命的な出逢いをし、電撃的に結婚し、翌年一粒種のコンスタンティヌスが生まれた。
3. クロルスはその後、順調に出世をして、西暦293年43歳のとき、副帝に任命されることになったが、その際、先帝マクシミアヌスの命令で、(副帝就任の交換条件として)、マクシミアヌスの娘テオドラと結婚させられる。当然、ヘレナ(当時43歳)は離縁された。
4. 天涯孤独で頼るべきものは当時20歳の一士官であったコンスタンティヌスしかいなかったヘレナは絶望の淵に沈んだ。ここで多分ヘレナはキリストに縋ったのであろう。隠れキリシタンとなったと推定される。当時としては危険な信心であった。
5. ところが一人息子のコンスタンティヌスは持ち前の沈着・快活・気魄に優れた武人となり、その声望は欧州全体を揺るがすような有様で、父、クロルスがヨークで西暦306年56歳で亡くなると、その後継者としてただちに副帝に就任させられた。反対する者は誰もいなかった。34歳であった。翌年先帝マクシミアヌスの娘ファウスタと結婚した。(父と子が先帝の娘達を分けあった)。この時点で57歳のヘレナは「皇后」の地位を追認された。一旦失った地位を回復したのである。
6. さらに西暦312年、コンスタンティヌスはミルウィウス橋の戦いでマクセンティウスを破りましたから、西ローマ帝国全体の支配者の正帝となり、
7. 翌年西暦313年、東西二人の皇帝は連名でミラノ勅令を発令し、キリスト教が容認された。この結果、ヘレナはキリスト教に改宗することができた(63歳)。
8. 西暦324年、異教徒に支持された東帝リキニウスを倒し、コンスタンティヌスは唯一の皇帝となった。74歳のヘレナは太皇后(アウグスタ, Augusta Imperatrix)の称号を与えられ、皇帝より聖遺物の探索のため国庫からの無制限の費用支出権が与えられた。
9. 西暦326年、76歳になったヘレナはエルサレムへと出発し、ベツレヘムとエルサレムの旧蹟を回復し、教会を建て、聖十字架を発見し、聖釘(せいてい)をも回収し、これらの聖遺物を携えて西暦328年78歳でローマに帰った。
画像:エルサレムとベツレヘムの位置関係。Google Map 2016。
10. 西暦330年頃、80歳で彼女は彼女の子供であるコンスタンティヌス大帝に見守られながらローマで亡くなった。亡骸はローマ東郊のヘレナ霊廟に葬られた。
画像:聖ヘレナが持ち帰った聖遺物。ローマのサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂に納められている。左から順に聖十字架、盗人の一人に使われた十字架、棘冠の棘、聖釘、十字架の碑銘(Titulus Crucis)
コンスタンティヌス帝の晩年の身内虐殺を非難していたブルクハルトも、彼の母親に対する扱いに関しては優しい。
「自分と親密な問柄にあったものを迫害し、また先ず息子と甥を、次に妻を、それから沢山の友人を殺した」この偉大なコンスタンティヌス帝の近くにいた人たちのうちで、唯一、比較的良好な関係にあったのは多分、母ヘレナ(325頃-330頃没。ビテュニア生まれの酒場女であったとされる)であったろう。夫コンスタンティウスー世クロルスのもとでの彼女の位置がどんなものであったにせよ、オリエント風の考え方では、彼女は十分正統と認められていた。それは、彼女が支配者を生んでいたからである。コンスタンティヌス帝は彼女の助言をいつでも素直に受けいれていたという。きわめて意図的で、公的な敬意に囲まれていた彼女は、生涯最後の日々を慈善、巡礼そして教会建立の仕事をして過した。彼女は八十歳をこえて死んだ、おそらく息子の死よりもそれほど前にではない時に。彼女の名に因んで、ビテュニアのドレパヌムはヘレノポリスと名づけられた。
(『コンスタンティヌス大帝の時代』ヤーコブ・ブルクハルト著、新井靖一訳 筑摩書房 2003 P391)