5. 神秘体験に対して与えられる現代的評価
中東において遙か昔から、ユダヤ教が存在し、その体験的宗教経験は神秘体験Bであった。つまり、暗い闇のなかで人間を桎梏する絶対神の存在であった。
プラトンはギリシャにあって、神秘体験Aに基づく明るい哲学を創始した。彼は神秘体験Bを否定し、神秘体験Aを「ロゴス」と命名し、これを絶対的で唯一の存在であると考えた。
この対立を抜け出す論理の作成に成功したのが、キリストである。彼は「空」に辿り着くまえに砂漠を放浪し、悪魔の桎梏に耐えて、真理に到達した。
だが、その後継者達は、プラトン哲学に影響されて、ロゴスがキリスト、即ち聖霊、であると考え、三位一体のカトリックを成立させた。
画像:聖ヒエロニムス像、聖誕教会 イエルサレム
聖誕教会のカトリック教会の地下に聖書のラテン語翻訳家として働いた聖ヒエロニムスの
仕事場が残っている。ヘブライ語の通訳としてOsapiusが働いた。 翻訳にはコンスタンティヌ
ス大帝の意向が反映され、キリストの真の意図は無視された。
ムハンマドは西暦610年マッカ郊外のヒラ-山の洞窟で瞑想ののち大天使ガブリエルの手引きでアッラー
の啓示(神秘体験B)を受けた。これがイスラムのスンニ派である。
アレキサンドロス大王はプラトン哲学をペルシャに持ち込み、ペルシャのイスラム教は神秘体験Aを核と
するシーア派宗教に変質した。
中世にあって、スペインのアヴィラに生まれたアヴィラのテレサは「霊魂の苦しみ」(神秘体験B)を「喜
悦と恍惚」(神秘体験A)と対立させ、悶絶し、これらの心的体験からして、2体験の並立がキリスト精神であ
ると断定した。だが、この哲学的認識は現在ではカトリックのなかで限定的な位置しか占めていない。
16世紀にドイツに現われたマルティン・ルターは、暗闇での悪魔による桎梏(神秘体験B)こそ「キリスト
精神」であり、カトリックは誤謬を犯していると非難し、カルヴァンが同趣旨で追従した。この結果、フラ
ンスでは1562年ユグノー戦争が始まる。ドイツでは、1618年、世界歴史のなかで最大規模の人的災害(宗
教戦争)が発生し、30年間続いた。
画像:Jacques Callot - The miseries of war
この虐殺沙汰を間近に観察したジョン・ロックは、神秘体験Aも神秘体験Bも正しいと断定を下し、『人間
知性論』を書いた。この断定の結果、
神秘体験Aも神秘体験Bも正しい。
但し、「神秘体験」なるものはその経験者の数がかぎられていて、名目的真理しか構成
しない。
大多数の人達は「神秘体験」を経験しておらず、経験した人の話を聞いて鵜呑みにし、
「盲目的軽信」に陥っている。
宗教戦争はこのような「盲目的軽信」が引き起こした人災だ。
だから神秘体験Aと神秘体験Bとをそれぞれ否定しないまでも、しかも「盲目的軽信」を
避けるために必要な決断は、「絶対基準を捨てて相対基準に変える」ことだ。
新しい評価基準とは、「いかにしたらより良き幸福が入手できるかを考えること」だ。つま
り「和を尊べ」ということだ、とした。
画像:サン・バルテルミの虐殺。フランソワ・デュボワ(1529-1584)画, ローザンヌ美術館。
シャルル9世の命令でユグノー指導者であるコリニー提督が殺され、後方右寄りの建物の窓からぶら下げ
られている。左奥、ルーヴル城塞から黒い喪服姿のカトリーヌ・メディシスが出て来て、死体の山を検分し
ている。
従って、ジョン・ロックのこの明察により、神秘体験Aも神秘体験Bも、その評価価値が大幅に減殺され、
そして、新しい価値基準(民主主義)が私たちの生活を支えることとなった。この民主主義下では、神秘
経験A、神秘体験Bのいずれか一方を絶対的真理とする考え方を「カルト」とカテゴライズし、「カルト」
に陥ることをきびしく戒めている。つまり、民主主義は、もはや神秘体験に価値基準を担保する能力を認
めていない。
なお、仏教においては、釈迦、文殊、龍樹が
神秘体験A 「世俗諦」
神秘体験B 「勝義諦」
という二つの体験的認識を樹立し、この二つの相対立する認識を滅却して「空」の概念を樹立した。
日本においては、聖徳太子が「空」の哲学空間での価値の規準を「和」に求めるべきだと主張し、17條
の憲法を制定された。これが日本の伝統的、正統的な考え方であり、この考え方は西洋で開発された民主
主義とまったく調和しており、矛盾は生じていない。
画像:桜の法隆寺