1. 概論

 

 神秘体験というのは、人間が経験することの出来る体験である。

 経験した内容が神秘的であるから「神秘体験」と呼ばれている。

 ただし「神秘的と思える体験」、たとえばオーロラ現象とか雲海から頭を出した「天空の城」は「神秘体験」に含まれない。それは同一の場所に行けば誰もが体験することができるものであるからだ。

 

画像:雲に浮かぶ竹田城

 神秘体験とは、人間が精神力を内面に集中するときに、予期せずに突発的に発現する経験で、それは時間的には短時間持続し(通常5~10分程度)、特殊なイメージの形で認識される。

 そのイメージは精神の本質(人間の本質)を体現するものと理解されるから、経験者の心に強い印銘を刻み込み、経験者はそれを一生忘れることができず、その後、本人のすべての思考の出発点となる。

 その体験は、初体験ののち、しばらくは(数ヶ月は)意図的に繰り返すことができる。

 

 人間の歴史、宗教、哲学を考察すれば、この神秘体験には二つのタイプがあるという結論に逢着する。逆に二つの神秘体験の存在を想定することにより、人間の思想を余すことなく包括的に包含することができる。

 また、神秘体験は二つに限定される。すなわち、神秘体験Aと神秘体験Bである。これを越える第三の神秘体験というものは存在しない。

 神秘体験に到達する人の数はかぎられている。ジョン・ロックによれば、それは「千人に一人」の割合である。(『人間知性論』1-4-16 大槻晴彦訳 岩波文庫 昭和47 P116)

 

 ジョン・ロックの時代(17世紀)は電気のない時代であった。1879年エジソンが白熱電灯を発明するまでは、人間は暗い夜を過ごしていた。人間は夜になれば必然的に内省の時間をもつこととなり、自らの心の奥底と対話して暮らしていたのである。日本でいえば、(禅僧の)禅定の時間が長かったのである。だから、神秘体験に遭遇する確率が高かった。「千人に一人」の割合だったのである。

 現代では文明が発達して電気が我々の時間を支えている。真夜中でも電灯は点く。テレビは見られる。このような時代には昔の人達が経験していた内省の時間はきわめて限定され、したがって神秘体験の享受者の数は激減してしまった。おそらく百万人に一人くらいの確率になっているだろう。

 

 百万人に一人しか経験することのできない「神秘体験」に根拠を置く哲学など「捨ててしまえ」というのが、プラグマティックなアメリカの思想だ。

 

 だが、過去の歴史も踏まえておかなければ、人間の思想の一貫性は保てないから、一応ここらでまとめておこうか、というのが本稿の狙いである。

画像:菩薩立像 石灰岩 東魏-北斉(西元6世紀中)中国北部 ギメ美術館 パリ

 

 

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