透明人間
2016/04/10
画像:吸血鬼・ドラキュラ伯爵の故郷、ルーマニア
前回の「京都の友人」で、私が欧州で置かれた苛酷な商取引の現実につきお話しました。通常の欧州駐在商社マンは日本との経常的な商い、ベース・カーゴを持っているもので、このベース・カーゴから食い扶持の大部分を稼ぎだすわけです。私の部門では私の部下は皆ベース・カーゴをもっていまして、部下A(日本人)は染料とか飼料添加物を主体とする精密化学品、部下B(日本人)はフッ素樹脂、部下C(ドイツ人)は農薬をベース・カーゴとしていまして、いずれもメーカーを日本とする継続取引です。時々生じる与信問題の他は私の介入する仕事はほとんどありませんでした。
画像:透明人間のイメージ
問題はベース・カーゴをもたない私の立場でした。前にも述べたように「死にものぐるいで」新しい商売をさがしたのです。先に述べたヒドラジンはこれはこれでメーカーが日本でしたから、どちらかというと「たやすい」部類でしたが、メーカーが第三国で、バイヤーが第三国の場合は、日本本社からは実態がつかめない「商い」となり、その商いを行う私は(日本本社から見れば)正体不明の「透明人間」になってしまうのです。ドイツの独立法人が勝手に作った商売で、日本はまったく関与していないからです。
画像:クメン法で製造されるアセトン
1976年頃(私が36歳の頃)こういう商売を作りました。東欧の貧しさからいえば下から二番目の、チャウシェスク大統領の支配する悪名高きルーマニアから、フェノール法アセトンを恒常的にタンク貨車輸送で買い付けました。当時ルーマニアのアセトンは品質が悪く、西欧へ持ち出しても、スペック落ちで売り物にはならない代物だったのです。これをはたして誰が買ってくれるのか?東欧専門家の助言に従い、お隣の国ハンガリーの化学品貿易公団Chemolimpexのフランクフルト支店に乙波をかけたら、買ってくれました。
画像:ルーマニアの民族衣裳
私はなんとルーマニア・ハンガリー国境の上に立ち、ルーマニアから買ったアセトンを隣国のハンガリーに売るというサーカスもどきの商売を作ったわけです。どうして東欧のルーブル貿易圏のなかでかようなトリッキーな商売ができるのか。
あとで調べたら理屈は簡単でした。ルーマニアはその当時東欧圏で義務化されていたルーブル決済をいやがり(というのもルーブルを受け取ってもルーブルではなにも買えないから)、ドルで支払ってくれる私をえらんだのです。
画像:ハンガリーとルーマニア
当時の日本は対東欧圏売り込みの盛んな時期で、東欧諸国はそれにたいし、カウンター・パーチェイスを義務として要求してきていました。東欧諸国の製品は品質が悪く、ほとんど買える品物はありませんでしたから、商社は社内規定を設け、カウンター・パーチェイスに5%の補助金を提供していたのです。
これらを総合して、私はルーマニア産アセトンを貨車輸送で引き取り、お隣のハンガリーのChemolimpexに売り、この際口銭3~5%を稼ぎ、さらに社内規定によるカウンター・パーチェイス補助金5%を受取りましたから、合計8ないし10%の利益を生み出す商売となったわけです。
画像:ルーマニア最初の機関車「カルガレニ」(1869)
そりゃ、いろいろ問題はありましたよ。タンク貨車一台がハンガリーで荷下ろしののち行方不明になり一年後にブルガリアの僻地で見つかったとか、タンク貨車のtanker-B/L(荷物證券)がタイプ・ミスだらけだとか、しかし、これらの西欧ビジネスでは許されない事態も東欧ビジネスでは何となく許容されるのです。東欧ビジネスに首までつかると、感覚が鈍くなって問題にならなくなるのです。L/Cを扱う銀行だってそうですよ。建前よりも実際が優先されるのです。
画像:ヴラド公は15世紀に、このシギショアラを治めていた人物で、オスマントルコ帝国と戦って、ルーマニアの独立を守った英雄なのです。この戦いでヴラド公爵は、敵の戦意を失くさせる為に捕虜を生きたまま串刺しにして見せしめにするといった残酷な方法を用いました。この事が吸血鬼のイメージと重なってドラキュラ伝説が出来たと言われています。
この利益率の高い商売も私がドイツを去る1982年に遂に終焉を迎えました。ルーマニア国が破産したのです。国が破産しても他国から買うことができなくなるだけで、自国生産品の輸出は続けられましたから、私は、当社の英国支店がルーマニア国に対して保有していた債権(農薬並びに触媒の販売代金)をアセトンの購入代金と帳消しにする相対(あいたい)取引を行ない、最後の取引をおえました。透明人間が不良債権の始末をしたのです。
こんな離れ業ができたのも、わたしにはきわめて優秀なルーマニア代理人がいたからで、最後の取引の利益のすべてを彼にさしあげ感謝の念を表わしました。
ベルリンの壁の崩壊はその7年後の1989年でした。