砂漠の民

2016/04/17

 

 仕事といえば、端的に言えば「契約」。

 「契約」をつくるためにはそれなりの準備が必要で、それには日数も智恵も段取りも必要で、「契約」が成立したときには、それなりの達成感が感ぜられるのはどの仕事でも同じです。

 ところがこの契約については、私は事前の準備をほとんどなにもせず、あれよあれよという間に契約は成立し、それが西欧石油化学業界のなかで猛烈な話題となり、わたしはいわば「英雄」の座に祭りあげられたのですから、「吃驚」でした。

 

 

 さきにも述べたように、私は石油化学製品商取引のプロであり、1974年生じた第一次オイル・ショックの際は日本で勤務しており、世界を股にかけた石油化学品取引を数々作り上げ、膨大な利益を稼ぎだした張本人なのでした。ところがこの有機化学品のプロも、石油ショックがおさまって、石油化学品の東西取引のチャンスが死に絶えてしまうと、西欧に居を移した本人には石油化学品を取り扱う機会などはほとんどありませんでした。だから、苦肉の策として先に述べた「透明人間によるルーマニア・アセトンの貨車取引」をデッチあげたのですが、これ以外は石油化学品取引の可能性はゼロでした。石油化学品のプロが西欧社会で「干しあげられた」のです。

 

 欧州に石油化学会社は沢山ありますが、彼らは伝統的に会社間の直接取引を行うのが通常で、スポット的な需要はロッテルダムに巨大なタンク群をもつ化学品ディーラーが独占的に行っており、日本の商社が介入する余地はほとんどありませんでした。介入しようとすれば理論的には実行可能でしたが、口銭率が薄すぎて、間尺にあわなかったのです。

 

 だから、デュッセルドルフに居を構える石油化学のプロは、彼のもつ才能をあたら棒にふり、目先の小銭稼ぎの化学品小間物商に甘んじていたのです。

 

         

          画像:メタノールの化学構造

 

 ところがここにまったく新しいタイプの石油化学メーカーが姿をあらわしました。1980年、石油産油国が石油化学品の生産を開始したのです。後にサウジアラビアに姿を現すメタノール工場よりもはるかに早く、リビアが世界で初めて生産を開始したのです。しかも合弁ではなく、リビア単独でのメタノール生産でした。(三菱ガス・サウジアラビア 1983年合弁生産開始、サウジでのセラニーズによる合弁生産開始は2004年)

 

画像:リビアの原油・天然ガス施設  (図はNews.yahoo.comから引用)

リビアの石油・ガスの埋蔵量の80%はSirte盆地である。

メタノール・アンモニアなどの石油化学品の生産はマルサ・エル・ブレガで行われる。

 

生産開始時期は:

メタノール              1,000MT/day       1978

                            1,000MT/day       1985

アンモニア

                            1,000MT/day       1978

                            1,200MT/day       1983

尿素

                            1,000MT/day       1981

                            1,750MT/day       1984

 

 なんと欧州石油化学業界に属さない産油国メーカーがサウジアラビアよりも早く出現したのです。この会社はSirte Oil Companyの石油化学部門に属し、1974年には販売子会社Brega Marketing Companyが設立されたのです。

 

 まあ、ここまでは産油国のダウン・ストリーム戦略の開始というありきたりのお話なのですが、不思議なのは、この販売会社がなぜか1979年にデュッセルドルフに欧州内の販売店オフィスを構えた事でした。メタノールの生産開始は1978年と上表には記載されていますが、実際には生産開始は遅れて1980年にずれ込んでいました。ところでデュッセルドルフにはドイツの石油化学ディーラーはいませんし、日本の商社も石油化学の担当者は皆ロンドンですから、Sirteがデュッセルドルフに店を開くということは私一人のために店を開いたということに等しいのです。そこで私は早速この会社をたずね、マネージャーのイブラヒムと仲良くなりました。彼にとっては異国で先生に巡り会ったようなものだったかもしれません。

 

写真:1980年10月デュッセルドルフ日本館にて。左がイブラヒム。

 

 そこで1980年8月、マルサ・エル・ブレガより積み出される初荷メタノールのテンダーがコールされました。

 

 私は実際なにもしなかったのです。なにもしないまま、テンダー締め切り日にイブラヒムの事務所に行き、実際のところ何ドルで応札すれば、契約が取れるのか、聞きたい気持ちをじっとおさえ、世間話をしていたら、イブラヒムがなにを思ったのか、トイレに行くと言って席を立ったのですが、その際、小さい紙片を机の上にポロリと落としていったのです。

 暗黙の取り決めで、私はその紙片を調べ、一番札がカール・オー・ヘルムであることを知りました。

 私はイブラヒムに二時間の猶予を請い、私のオフィスから国際電話で国内と打合せ、カール・オー・ヘルムの価格に2ドル上乗せすることを決定しました。

 たまたま日本ではメタノールが一時的にショートしていたこともあり、価格的にもミートしました。

 また1万トンの日本向け船腹も日本の船腹課のM君がたまたま欧州から空荷で帰る邦船をみつけて確保してくれました。

 こうして、(私は実質なにもしなかったのに)2時間後契約は成立しました。勿論私は専門家ですから、契約書は私がタイプしてイブラヒムに送りつけたのです。

 こうして欧州近辺の産油国による石油化学品の初荷は目出度く私共の手に落ちました。

 

画像:Hotel Danieli内部

 

 この契約は西欧石油化学品業界に大反響をまきおこしました。リビアといえば、欧州の対岸。そこからのメタノール初荷を日本勢によってかっさらわれたという屈辱感。また、ハンブルクの大化学商社であるカール・オー・ヘルムは欧州勢のなかで談合を組み、そのリーダーとして活動しており、契約が自社にくるものと確信していましたから、船のスペースをストルト・ニールセンに発注済みでした。したがい、約1億円(当時)のデッド・フレイト問題(船のスペースを使用しないのに、運賃を全額支払わなければならない義務)が生じたのです。それよりもなによりも目先の商売を得体の知れない日本商社にさらわれたという屈辱感がすごかったでしょうね。

 

 1億円のデッド・フレイトが大反響を巻き起こし、私は西欧石油化学業界のスターになりました。同年10月ヴェニスで開かれたEPCA(西欧石油化学業界)の会議では会議場である沖合の島リドのHotel de Bains(海水浴ホテル)で私を見物するギャラリーができました。私は最上級会員扱いされ、宿泊ホテルとして本島の最高級ホテル「ダニエル」の海側の最上級室を頂戴しました。EPCAは私にこっそりとブルー・リボン賞をくれたのです。私はこのホテルでとてもとても美味しい食事を楽しみました。

 

写真:1980年10月、Hotel Danieliからの眺め。

 

 勿論のこと、なぜ私に契約がとれたのか、という裏話などは決して他人には話したりはしませんでした。

 実のところ、イブラヒムは砂漠の民であり、深く深く思索にのめり込むタイプであり、私は私で、幼時永らく坐禅をしていた関係があって思考方法がきわめて似ていましたから、彼とは言わず語らずの黙許の会話が成立していたのです。だから、こんなこと、他人に話しても理解されないことは確実でしたから黙っていただけなのです。

 

 では皆様、ご機嫌よう。

 

 

注1:1988年パンナム・ロッカビー爆破事件などのテロ行為によりリビアは国連制裁を受けた。2003年に制裁は終了したが、その間、技術者がリビアから逃げた。

        

        画像:経済制裁で生産が中止され、技術者がいなくなり、19ヶ月生産中止の後

        やっと生産開始した最近のマルサ・エル・ブレガのメタノールプラント

        (September 24, 2012)。

 

注2:最近では事態はさらに難しくなっている。ISがリビアに入り込み、基幹産業への攻撃を開始している。


画像:ラスラーヌーフ石油施設の火災の前に立つ消防士(1月23日) (写真はJordantimes.comから引用)

イスラミック・ステート(IS)の武装勢力が、2016年1月21日(木)の夜明け前、ラスラーヌーフの石油施設基地を急襲した。攻撃によって4基の石油貯蔵タンクが火災になった。火災になったタンク4基には、合計で約200万バレル(32万KL)の原油が入っていた。